仮に、明智光秀にそれらしき遺体と言う事で、届けられたとしても判別がつかず、そんな誰だかわからない首を晒すのは、逆効果だと考えたのかも知れない。
このように、結果的に織田信長遺体は「見つからなかった」と言う事になってしまったと解釈するのが、妥当なのだろうか? → 本能寺の変と明智光秀
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本能寺の変 信長 遺体
最後は光秀に命を狙われ 続きを見る 信忠は二条御所を明智軍に取り囲まれ、自刃しています。 ゆえに清玉上人が信長の遺骨を阿弥陀寺に運んでから、もう一度二条御所へ行ったのか、別の僧侶か武士に頼んで運んできてもらったのか……その辺は不明です。 この説で行くと「 明智光秀 が信長の遺体を探しても見つからなかったのは、清玉上人たちが素早く火葬を行ったから」ということになりますね。そして……。 ※続きは【次のページへ】をclick! 次のページへ >
『歴史の真相』第十三回 ~信長の首が本能寺になかった理由とは?~ | 安部龍太郎オフィシャルサイト
天正十年(1582年)6月2日、 本能寺の変 が起きました。 京都の本能寺に滞在していた信長が、家臣の光秀に謀反を起こされ命を落とす――という突然のクーデター。 なぜ光秀がそんな真似をしたのか? という動機は今なお日本史最大のナゾとされ、以下の記事に考察を載せておりますが、それとほぼ同じく不思議なのが【 信長の遺体 】です。 本能寺の変で光秀はなぜ信長を裏切ったか 諸説検証で浮かぶ有力説は? 続きを見る 光秀が三日天下で終わったのは、遺体を入手できなかったのが影響したという見方もあります。 では、一体誰が隠し、あるいは埋葬したのか? そこで浮上してくるのが 清玉上人 という名前です。 史料的価値は疑問視されていて史実とみなすには無理があるのですが、阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』に、この清玉上人が遺灰を持ち帰り、供養したと伝わっています。 本稿では、その状況を辿ってみましょう。 信長に庇護されていた京都・阿弥陀寺の清玉上人 長島一向一揆 や石山 本願寺 、あるいは比叡山と激しい戦いを繰り広げたせいか。 長島一向一揆で信長が宗徒2万人を虐殺! 徹底的に潰したのは何故か? 続きを見る 比叡山焼き討ち~なぜ信長は攻め込んだ? 数千人の虐殺&大炎上は誇張あり? 続きを見る 織田信長 は寺社仏閣に高圧的な人物と思われがちですが、実際は、むやみやたらに敵対していたわけではなく、真面目な聖職者には庇護を与えておりました。 織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付 続きを見る 阿弥陀寺の清玉上人も、そんな一人。 この寺は、光秀とゆかりの深い近江坂本に創建されたお寺で、その後、信長に帰依され、京都に移転していました。 ときの天皇である 正親町天皇 も帰依しており、阿弥陀寺を勅願所と認めたり、清玉上人には東大寺の勧進職を任せたりしていました。 正親町天皇は光秀&信長&秀吉とどんな関係を築いたか?
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